アレがない。
その事実は、起き抜けの頭の中を空白と緊張で埋め尽くすのには十分すぎた。そんなはずはない。毎日深夜まで働き、どんなに疲れて帰っていても、求められた時にはちゃんとつけてたはずだ。ありえない。忘れるなんてありえない。
「絶対にありえない。」
しかし、「絶対」的な物事というものは世の中に存在しない。あえて言うならば「絶対というものは絶対に存在しない」というコンテクストの中でのみ、その存在意義を認めることができるだろう。裏を返せば、先の「絶対」は「受け入れ難い現実に対する個人的希望」に過ぎず、同時にまたその希望と現実との乖離を受け入れられない幼稚さのあらわれでもある。
「やはり身に覚えがない。どう考えてもおかしい。」「いや、ひょっとしたらあの時か?」随分伸びた坊主頭をかかえて、一人唸った。途方にくれている人間というものは、しばしば本当に途方にくれたように見えるポーズをとってしまうものだ。それにしても、なんで急に。よりによって、この忙しい朝に。時刻はすでに8時40分、もう余裕はない。次の電車に乗らないと遅刻してしまうだろう。四方をふさがれた僕は、ついに観念した。
「やれやれ。」
-2分後。
僕は210円の切符を手に、電車に揺られていた。
今朝、どこかで落とした定期入れのことを思いながら。
駅から電話連絡があり、結局定期は今日中に手元に戻ってきました。拾ってくれた人、どうもありがとう。